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≪2月5日≫おかげさま商会ゲスト

クミコ さん

 

≪プロフィール≫

演劇を志し、早稲田大学に入学するが、不条理演劇の中で歌うシーンがあり、歌で表現することに目覚めて劇団を退団した。大学卒業前、友人に誘われバンドにピアニストとして参加する。その後、バンドを辞めたその友人の代わりにボーカルを担当する。

1978年、24歳の時、第16回ヤマハポピュラーソングコンテストの予選を勝ち抜いて(「関東甲信越大会」では歌詞を忘れてしまったが、何かが評価されて先に進めた)、つま恋本選会に出場する。ボーカルを務めた(当時は斉藤久美子名義)「ホンキートンク」の「どしゃぶり ずぶぬれ しどろもどろ」は優秀曲に入選する[2]。同年、日本代表の一人に選ばれ、第9回「世界歌謡祭」にソロ歌手・斉藤久美子として出場したが、予選で落選し、本選に進めなかった[3]。この時のグランプリ曲は円広志の「夢想花」だった。

レコード会社から予定されていた収録済みのデビュー盤はボツになり、挫折を味わう。その後長い間、小さなスペースで少数の熱心なファンや永六輔などの支援者に支えられながら歌い続けた。ホール・コンサートがメインの活動となるのは2003年秋以降である。

シャンソン歌手としてデビュー

1981年から1982年にかけて、埼玉県大宮市にあった後楽園グループ(現東京ドーム)のドイツレストラン「ラインゴールド」大宮店にて特技のピアノとシャンソンを中心とした弾き語りもしていた。

1982年6月、27歳の時、日本におけるシャンソニエの老舗だった銀座銀巴里」のオーディションに合格し、プロデビューする。オリジナル曲で合格したのは前代未聞のことで、合格後、越路吹雪のレパートリー曲などでシャンソンを猛勉強する。この他にも、ZABADAKでデビュー前の吉良知彦らと組んだロックバンド「びわ」などでも活動した[4][5]

1987年、ミュージカル『レ・ミゼラブル』の日本初演にアンサンブルの一員として出演する。同年7月に高橋久美子の名でLPアルバム『POKKOWA PA ?』をリリース。32歳での遅いデビュー盤だった。

1980年代後半から「渋谷ジァン・ジァン」に出演し始め、10時劇場『六輔七転八倒九百円十時』へのゲスト出演、10時劇場「高橋久美子の唄う『音楽図鑑』」、「世紀末コンサート」 、「高橋クミコの『ステキな唄』」シリーズなどを1999年まで続ける。ほかには新橋「アダムス」などのシャンソニエや青山円形劇場、南青山MANDALAが主な活躍の場所だった。パントマイムマルセ太郎、俳優の篠井英介との共演も行う。

1996年、「茶目子の一日」や「お定のモリタート」などを歌うアルバム『世紀末の円舞曲(ワルツ)』を東芝EMIよりリリース。1999年には作家の中島梓と南青山MANDALAで「SYAPPO!」と銘打ったライブを行った。

「クミコ」への改名、ブレイク

一般に知られるようになる最初のきっかけは、2000年の『AURA』であった。『世紀末の円舞曲(ワルツ)』とライヴを聴き「街角の歌姫」クミコの歌に感動した作詞家・松本隆のプロデュース・全編作詞になるアルバムだった。1999年に出会った松本から「あなたの歌声には言霊がある」と言われ、また、松本の「別れた亭主の名前をいつまでも付けているから売れない」との助言を受けて、姓を取って現在の「クミコ」に改名した。

さらなる大きな転換点はavex io移籍後の初アルバム『愛の讃歌』に収録された、バルバラシャンソンに詩人の覚和歌子が原詞を離れて作詞した「わが麗しき恋物語」という曲で、2002年、48歳の時。ニッポン放送のアナウンサー・上柳昌彦が『うえやなぎまさひこのサプライズ!』で取り上げるなど、ラジオやテレビの番組によってクミコを知らない人々にも紹介されることとなる。たまたま聴いて涙してしまったと評判が広まり、じわじわと世に知られるようになっていった。

 



 

 

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